挑戦が自分らしさを作っていく。

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挑戦が自分らしさを作っていく。

僕のこれまでの生い立ちや生き方が誰かの励ましになるという熱い情熱に、初めは恥ずかしいと断っていた。しかし今回は是非僕の人生を皆と共有したい。

堀口昂誉(ほりぐちたかのり)と言う。両親によると、この名前を使えるかどうか、市役所の窓口担当が20分くらい調べていたそうである。株式会社レスターエレクトロニクスに在籍しているアスリートで、デフリンピックの出場を目指すろう者である。生まれは宮崎県だ。

祖父母は聴者で、父母はろう者。家では、親はろう者だが自分はベラベラと音声のしゃべりを用いることが中心だった。手話もほぼ日本語寄りきで、両親としては手話もだが、それより日本語を身につけて欲しいという気持ちがあったらしい。通っていた学校の環境もあり、声を使っての発話がほとんどだったのを戒めるようなことはしなかった。姉だけは文句をいっていたことを記憶している。

声を使う生活は大学まで続けていたが今はほとんど声を使わず、手話で生きている。

あの頃は学校の端の木藪に小川や沼があって、そこで一人でよく遊んでいた。虫のヤゴやホトケノザの蜜や種を集めて物々交換をした。腕相撲が強かったので、聞こえる人と時折交流はしていたが、独りでいることが多かった。耳なし芳一とヤジられることもあったが、この頃は何かとゲームが流行っていたため(初期の頃のポケモン、遊戯王、デジモン世代だった)友だちの家でとにかくゲームで自然に聴者と解け込むことができた。ゲーム様様である。

小6の途中、親と一緒に千葉県にある筑波ろう学校(現在名称:筑波大学附属聴覚特別支援学校)を見学した。「ゲーム買ってあげるから」という親からの条件で、僕は勉強をしたふりをしていた。思惑とは別に合格が決まってしまい、宮崎県の実家から離れて、寄宿舎に入ることになった。筑波ろう学校は幼稚部~高専まであって、同級生だけでなく、後輩、先輩となど様々な世代と交流できた。

ここでの体験が、後々「運動大嫌いゲームオタク」から「アスリート」を目指す大きな一歩となった。

きっかけとなったのが、寄宿舎の定年退職間近の寮母さんだ。彼女が持ってきてくれた随分と古びた新聞のスクラップを読んだのだ。その内容は陸上100、200mの千葉県大会で、負け知らずのろう学校の生徒が取り上げられていた。しかし特殊学校のため、関東大会ならびIH(インターハイ)に出られないという。この記事の「ろう者が聴者に陸上で勝つ」「時代とはいえ実力を持ちつつも出場できない理不尽さ」という事実が衝撃だった。その時、僕はろう者というものは聴者に劣っていて当然のことだと思っていた。耳が聞こえないことで意識はあまりしたこのないものの、抑圧された経験の積み重ねによる無意識な怒りのフラストレーションが体温をあげたような気がした。

しかし、このスクラップのおかげで、ろう者でも聴者と対等でも良いと思い始めた。その日を境に、「めんどくさい」と「逃げる」のをやめてみた。陸上バカになるほど走ることに明け暮れ、努力すれば速くなる、そんな過程が楽しい毎日だった。

高校卒業後、就職訓練のような専攻科に入ることを考えていたが、担任の先生に、勧められて陸上とスポーツの勉強をするために大学へ入学した。周りは聴者だけで、自然と手話を使う機会がなくなった。時には、「喋れるくせに分からなかったって言っているんじゃねえよ」と言った罵声を浴びされたこともある。

大学四年生の陸上の試合で、左膝の半月板を断裂して手術をし、半年歩けなかった。しばらくは呆然とするしかなかった。病室で茫然自失の中で、NHKで放映されていたのトランスジャパンアルプスレース(TJAR)を観た。これは、八日間制限時間内で新潟から日本アルプスを通り、静岡まで距離 約415Km、累積標高差 約27,000m走破するレースだ。その過酷さに魅入られ、死に物狂いで走っている人たちをみて励まされた。いつか参加したいと思った。

また教育実習で、母校に行った。生徒が陸上競技を通して人が成長するのをみてうれしく思い、特別支援学校の免許をとるために別の大学で勉強した。卒業後、ろう児の入所施設で六年働いた。

施設にいた子どもたちはそれぞれ複雑な家庭環境があり、理不尽さがあってもそれが普通。子どもたちの意思とはまた別に入らされた入所施設、自由がきく家とは違い、思い通りにいかないことや歯痒さも多く感じていたと思う。施設の職員として味方だと示すも、叱らなければならないこともあり、信頼関係をつくっていく過程はとんでもなく過酷でとんでもなくやりがいがあった。自分をそっちのけで、子どもにとってなにがいいのだろうかと苦しんだ日々が、子どもたちにも「あれ楽しかったな」と時に考える思い出となればいいなと思う。

唐突だが、とにかく人間は過去を賛美しがちな生き物だなと歳をとるたびに強く思うようになった。子どもから貰った一言で決心したことがある。職場でも、子どもらに陸上競技を指導したりトレーニングを楽しんでいたりした。ふと「そんなに陸上を愛しているなら、何でこんなところでくすぶってるんだよ」と子どもに言われたことから、自分について再度真剣に考え始めた

8年の陸上のブランクがあった中で、「本当にもう一度やるか?」と覚悟を常に問い、夜勤も平行しつつ練習した。その間もまた、NHKで放送されていたグレートトラバースに元気を貰っていた。内容は、田中陽希さんが日本百名山を人力で登るものだった。つくづく自分は人の挑戦に励まされるタイプらしい。覚悟が強固たるものか確認するために自転車旅に挑戦した。とりあえずで思いついたのが日本の陸上競技場を回る旅だ。対象はグレードが高い一種の陸上競技場で、県に必ず一つある施設である。

一回目の挑戦は、2018年の夏だった。その旅の途中に車にはねられた。ヘリコプターで搬送され、集中治療室へ入った。半年リハビリしつつ、まだ自転車旅への情熱が衰えることはなかった。2019年5月にまたチャレンジした。日本一周を達成し、これまでの過程を見て、「リハーサルは終わった。覚悟はできた、陸上に戻ろう」と決めた。

その一年後に、株式会社レスターエレクトロニクスさんと縁の巡り合わせで有り難く契約を結んでいただき、正式にアスリートになった。目標となる、デフリンピック出場のために、酸欠、頭痛、嘔吐、ケツワレしながら日々トレーニングに励んでいる。

ここまでが僕のダイジェストだ。

最後に、自分の生い立ちを読んでくれたあなたに。聴者のみでなく、聴こえにくい、聴こえない人に同様、理不尽さはみんな、なにかしらそれを感じてるが、取り憑かれないようにするには、自分らしい挑戦が一番の薬だと思う。

堀口昂誉(ほりぐちたかのり)
株式会社レスターエレクトロニクス
(https://www.restar-ele.com)
在籍のアスリート。
デフリンピック出場権利獲得のために日々奮闘中。

中川 夜
中川 夜

1991年生まれ。ろう者ライター&作家。聴覚と精神の重複障害者。
自著『会社でいじめられて人生おわりそうだったぼくが「あること」をしたらすべてが変わった』
『自分を人の10倍知り尽くす習慣』等をAmazonで発売中。
お仕事依頼は nakagawayoru★gmail.comまで。(★を@に変えてください。)

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