なぜネパール?

なぜネパール?

 突然ですが皆さんに質問です。いままでに、言語が通じると思っていた国に行き、蓋を開けてみたら全く通じないという経験をしたことがありますか?よくある例では、学校で少し英語を勉強した日本人がフランスに行き、観光地やレストランで、フランス人が全く英語を話してくれないという状況です。あまりそういった経験をしたことがある人はいないでしょうか…?でも少し想像してみてください。
もしもそんな状況に自分がいる時、どんな気持ちになりますか?

楽しい?悲しい?怖い?不安?パニック?

私の場合は「めっちゃハッピー&スマイル」でした。

 2020年の1月、私はネパールのビラトナガルという町のYouMe Schoolという学校で、英語教師のインターンをしていました。

まず何故ネパールに?というお話ですが、ロングストーリーを端的に伝えると、当時アメリカに住んでいた大好きだった女の子がネパール人だったんです。恥ずかしいですね。話をもどします。ある日、YouMe Schoolに通っている生徒から「家に来ませんか?」と尋ねられました。彼の名前はアンモル(Anmol)といって、当時は小学4年生でした。

彼の家に行ってみると、見たことのある生徒がもう2人。聞いてみると、ジェニサ(Jenisha)ジェニス(Jenish)というどちらもYouMe Schoolに通っていた生徒でした。私が住んでいた家も近かったことから、よく遊ぶようになり、サッカーや自転車、勉強まで一緒にやることがありました。ある日、彼らの家にいってみると、「アーッ!」というかん高い、喉に何かが詰まったような声が聞こえました。家の中を覗いてみると、アンモルがお母さんらしき人と話していました。けれどもアンモルは声を出しておらず、必死に身振り手振りで何かを伝えようとしています。お母さんも何度も、同じ様なかん高い声を出しながら、身振り手振りで何かを伝えようとしています。アンモルが私に気づき、家に招きいれてくれました。「僕のお母さんです。」と紹介してくれました。アンモルのお母さんは手を合わせ、にっこりと笑って「ナマステ」と挨拶をしてくれました。(ナマステ=こんにちは) この時、声は出さず、静かに頭を少し下げる様子でした。私はいつも通り英語で自己紹介を始めました。するとお母さんは、私ではなくアンモルを見つめ、アンモルが手を動かす度に頷いたり、笑ったりする様子でした。するとアンモルが「僕のお母さんろう者でね、耳が聞こえなくて、話すことも出来ないんだ。だから僕らは手話で話すんだ!」と言いました。最初、私はアンモルが手話を滑らかに使うことのカッコ良さに感激し、驚いた様子をみせました。(学校ではあまり勉強が得意な子では無かったので…笑) そこから、自然と私も話すときにジェスチャーを多く使うようになり、段々とお母さんとも目を合わせながら話すことが出来るようになりました。またその数分後、アンモルが何かの用事で家をでたので、私とお母さんだけが家にいる状況になりました。するとお母さんはある一冊の黄色い本を持って来てくれて、開いてみるとネパール語の手話の本でした。

英語の意味が書いてあったので、これを使いながらコミュニケーションを取り、気づけば2人とも笑いながら何不自由なく会話することが出来ました。この日私は、言語、年齢、人種、性別、宗教、障がいなどの壁を超えて関わり合える「楽しさ」に気づきました。これがネパールのろう者との最初の出会いです。

 それからも何度も家に遊びにいくことがあり、アンモルのお父さんや、ジェニサとジェニスの両親もろう者であることを知りました。彼らと一緒にご飯を食べたり、お父さんとお酒を買いにバイクで2人乗りをしたり、お父さん達とお酒を飲んで一緒に酔っ払ったり、聾学校の先生をやっているお母さん達に手話を教えてもらったり、現地の聾学校に連れていってもらったり、一緒にホーリーというお祭りを祝ったり、数えきれないほどの経験をさせてもらいました。日本に帰って来てからも、アンモル達とビデオ通話をすることが沢山ありました。私も手話の本を毎日開いて勉強していました。

 ところで皆さん、星野源さんの「うちで踊ろう」という曲を覚えていますか?コロナ禍真っ最中の時に、日本に世界に元気をくれた素晴らしい曲でした。ある日、ネパール語系YoutuberのGinnさんが、「うちで踊ろう」のネパール語バージョンをアップしました。これを聞いて私は、

「ネパールのろう者のにもこの歌を届けたい!」

と思い、アンモルとスニタ(Suneeta)と協力をして、ネパール手話バージョンを作り、YoutubeとFacebookに投稿しました。すると思った以上の反響で、何千人ものネパール手話話者が観てくれて、とても喜んでくれて、沢山の嬉しいコメントを頂きました。


 この日からFacebookを通して沢山のネパールのろう者と関わることが増え、彼ら彼女らの経験や、強み、夢や、悔しい話など本当に沢山のことを話してくれました。そんな日々が続き、どうしても心に残っていた彼ら彼女らのコトバがあります。それは

「聾者だから仕事がない」

です。考えてみると、ネパールはアジアの中でも最貧国で、1日の収入がに100円から1000円ほどであることも少なくありません。(地域や、仕事によって大きく異なります。貧富の差が大きいと考えることができます。)また健常者でも仕事を得ることが難しく、学校をやめて海外に出稼ぎにいき、肉体労働をする人は多数です。そんな中では、耳の不自由なネパール人に、あまり雇用の機会が無いということは簡単に想像できると思います。

じゃあお金を送ればいいのか?

確かにお金を送れば、その人達は救われます。実際にコロナ禍で、会ったこともない何人かのネパール人からお金を送ってほしいと言われました。けれどそれじゃあお魚を与えているだけです。私が与えるのを止めたら、彼らはまた違う人に魚をもらいに行くだけです。中国の格言でこんなものがあります。

「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」

与えるだけではなく、一緒に強みを生かし合って何かをやっていきたい、そう思いました。まずは小さくても、持続性があって価値があり、ネパールの方々も成長できるビジネスモデルを考えました。

すぐには大きな利益を生み出せなくても、沢山の人に雇用を作れなくても、着実に一緒に一歩ずつ進んで行けるという自信があります。またこのプロジェクトでは、日本人とネパール人の耳に関わる経験や想い、お話を提供してもらい、多言語(日本語、英語、ネパール語、日本手話、ネパール手話)で発信します。コロナ禍で、ネパールのろう者と話し、皆んな色々な夢や強い目標があることを私は知っています。日本人やネパール人、他の国に住む人々が彼らの想いに興味をもって、発信者と読者で一緒に何かプロジェクトを起こすことができたら、とても魅力できただなとも思っています。
 少し話がそれましたが、発足にあたって、一緒に運営をしたいと頭に浮かんだネパール人は以下の3人です。

1人目はアルナ(Aruna Chhantyal)

彼女は成長と共に筋肉が破壊されていく筋ジストロフィー症を患っています。特に下半身への影響が大きく、普段から車椅子で生活しています。他の合併症の影響で、聴力も失いました。ネパール語の他にも、ヒンディー語と英語をマスターしており、言語力に長けています。さらに物語や詩を読んだり書いたりすることが好きな彼女は、自分でAmazonに本を出版するほどの創造力と行動力を兼ね備えています。彼女には英語とネパール語の翻訳作業をお願いします。

2人目はスニタ(Suneeta Thapaa)

Youtubeでも手伝ってもらった方です。彼女はろう者として、ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業のプログラムで、約1年日本に滞在していました。滞在中に日本手話をマスターし、ネパールに戻ってからも積極的にろうコミュニティに働きかけをしています。ネパールの大きなニュースメディアのBBCニュースでもインタビューを受け、発信力に長けています。また将来的には、聴覚障がいだけでなく、様々な障害がある方々とネパールをよくしていくために、組織を起こしたいという強い意志があります。彼女にはネパール語とネパール手話への翻訳と、日本の手話学習者の方々とのワークショップなどをお願いします。

3人目はキシャン(Kishan Rana Magar)です。

彼は聴者ですが、ダウラギリろう学校で大学生相手にコンピューターエンジニアの先生をしています。さらに彼も、以前日本に3年ほど滞在しており、日本への興味や理解も強いです。彼にはネパール手話指導や、ネパールろう学校の情報発信彼の学校の学生とのタイアップ企画などをお願いします。

 とても長くなりましたが、これらがネパールの方々を絡めてプロジェクトを起こしたいと思った理由です。もちろんまだまだ私のエゴの塊です。ネパールが大好きで大好きで、いつかネパールに住んでみたいとも思っていますから。けど、大好きになられて、何かしてくれる人のことを嫌いになる人っていますか? 沢山のネパール人に喜んでもらって、一緒に少しずつ、「”聴こえ”に関わらず共に笑いあえる社会」を目指していきたいと思います。