皆の”こそこそ話”は耳の聞こえない私を変えてしまった。
私はデフシル代表の祖母。今年75歳で、障害者手帳を持っている。手帳に記載のある障がいは、肢体不自由(上肢)4級、聴覚障害で3級である。産まれた頃から身体の弱かった私は頻繁に入退院していた。同時に沢山の薬を処方され、手術も多く受けた。高校生になるにつれて体調は良くなっていったものの、多くの薬の副作用によって、視力や聴覚の低下が著しかった。今回は私の指のことと、耳のことについてお話していきたいと思う。
私の家族は農家と畜産を営んでいた。兄弟も5人いて、今では大家族だといえる。私は身体が弱かったこともあり、小さい頃から母親に甘えて離れなかったらしい。私が3歳の頃、母親が押切という刃物で家畜用の藁を切っていた。私は、作業中の母親におんぶをしてもらおうと後ろから近づき、机に手をついた。その時、母親が誤って私の指も切ってしまった。昔は氷もない為、母親はすぐに指を頭に巻いていた手拭いに包んだ。車もなく、リアカーで近くの病院に向かうも、時間が経ちすぎていて、指を繋げることは出来なかった。
小学生になり、初めての健康診断を受けた。その時、周りの友達と比較をして、初めて耳が遠いこと、目があまり見えていないことに気づいた。お医者さんに聞くと、今まで処方されてきた薬の副作用だろうと診断された。当時は補聴器もなかったので、とにかくそのまま授業を受けることになった。先生の言っていることはとても聞き取りずらかったが、教科書を見たり、先生の口を読み取ってなんとか勉強を続けた。しかし英語はそう上手くいかなかった。アルファベットや先生の口が読めないのに加えて、英語が話される時の音は低かったため、全く聞き取ることができなかった。
成長するにつれて聴力に変化はないものの、どんどんと自分の性格がひねくれていってしまうことを自覚した。指が無いこともあり、陰で沢山の人々が耳打ちをしているのを見て、「私の悪口を言っているんだ」と嫌な想像ばかりが膨らんでしまったからである。
1人目の子供が産まれた時、補聴器を使うことに決めた。その子は本当に、勝手にどこかに逃げては迷子になって泣いてばっかだったので、子供がどこにいるのかを知る為に補聴器を使い始めた。昔の補聴器はポッケに入れるタイプのもので、障害者手帳を持っている私は無償で手に入れることができた。補聴器をつけて最初の頃は本当に気持ち悪くなった。色々な音や、機械音が耳に入ってきたからである。慣れるまでには何週間もかかった。補聴器は意外にも壊れやすい。少しぶつけたり、湿気の影響や、寿命ですぐに壊れてしまった。補聴器の値段もどんどん高くなり、障害者手帳を使っても、20万から30万円ぐらいした。もっと国が負担してくれても良いのではないかと思うことが多々ある。
ずっと身体の弱かった私も、頑固な旦那さんとの生活でどんどんと強くなった気がする。子供も大きくなって、昔から大好きだった裁縫を始めた。最初は障がい者が多く勤める会社で勤務して、それからは独立して個人で服のお直しをしている。私は障がい者なので一般のお店の様に料金を頂けないと思っている。なので普通の半額ぐらいでお仕事をさせてもらっている。洋服を直す技術は人一倍長けている自信はある。74歳になる今、優しく貴重なお客さんに囲まれて元気に暮らしている。
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