理解がない。だから苦しい。

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理解がない。だから苦しい。

 ナマステ。私はネパール、ブトワル出身のパルバティ マヤ ラナ。 13歳の時に突然聴力を失った。

 初めて病院を訪れたとき、補聴器を使えば「聞こえるようになるよ」と言われた。私はとても嬉しくて、また皆んなの声が聞こえると大きな希望を持った。しかし、確かに音は聞こえるものの、誰が何を言っているのかまでは少しも理解できなかった。補聴器はバッテリーを頻繁に充電、または交換する必要があり、またネパールでも非常に高価で、簡単に入手できない。家族への負担になることを自覚し、私はとても辛い気持ちになった。それでも、とにかくまた皆の声が聞きたいと願って、様々な補聴器を試したが、思う様に機能するものはなかった。微な音、口の動き、その場の雰囲気から、何が起きているのかを想像する日々だった。

 私が思う様に学校の授業についていけなかったことは簡単に想像できるだろう。自分の勉強は、友だちのノートを写すことくらいしかできなかった。用が無い限り、誰とも話をすることも無かった。時々、先生は私に質問をしてくれた。しかし私は聞き取ることができず、先生に質問を繰り返すように頼んだ。彼は大きな声で繰り返してくれたけれど、大きな声は逆にもっとくぐもった(ききづらい)音になり、結局聞き取れなかった。それで私が理解できないと、先生は激怒して私を叩き、殴り、体罰を行う。私を理解してくれる人は誰もいなかったし、先生の言うことを聞いたり理解したりできなかったという理由だけで、私はいつも先生の殴打を受けなければならなかった。「なぜ私だけ」といつも心の中で考え、毎日の様に自分のベットで泣いていたことを覚えている。

 育った環境に同じ境遇の人はいなかった。家族や親戚、友達も皆聴者だった。助けを求めたり、共感してくれたりする人がいなかったことがとても辛かった。皆の話を理解したり、一緒にスポーツをして楽しんだりしたかったけれど、それもかなわなかった。

 さらに、私が話すことができることを知っているにもかかわらず、私を「口のきけない奴」と呼んでからかったりすることさえあった。とても苛立つし、悔しかったけれど、ただただ耐える以外に彼らと戦う方法はなかった。今でも馬鹿にしてくる人たちはいる。私は大声で叫び、「私だって話せる」と彼らに直接いってやりたい。

 ある日、私の両親は人工内耳について教えてくれた。学業を続けたかった私は人工内耳を使うことに決めた。依然、はっきりと声を聞くことはできないけれど、大学を修了するのにとても役にたった。その後、友達と一緒に就職活動をした。しかし、面接に行くたびに採用を拒否された。「後で電話します」という返事をもらったこともあったが、決して電話がかかってくることは無かった。後に聴者の友達が、私が落とされた仕事に就いていることを知り、それは私の耳が原因で判断されたのでは無いかと思っている。

 NFHOH(ネパール難聴者協会)に出会うまで、自分のアイデンティティを見出すことが出来なかった。そもそも難聴者がどのような人々を指すのかさえ分からなかった。けれど今は難聴者である自分に自信を持って、難聴者の福祉のために働きたいと強く願っている。また、この社会の私たちに対する差別的な態度や、私たちが何もできない人だと思われる習慣をなくしていきたい。私たちの耳は確かに聞こえなくなってしまったけれど、皆の様に手を使って重い物を持ち上げることはできる。雇用主はろう者や難聴者にも、ためらうことなく雇用の機会を提供してほしい。聴者には、電話などの仕事を、聴覚障がいのある私たちにはそれ以外の仕事といったように、私たちにできることを任せて欲しい。

 中途失聴は誰にでも起こりうる。だからこそ、将来、私のように聴覚障がいを理由に落胆したり、苦しんだりする人が減っていくように、聴覚障がいについてみんなで知識を広めていく必要があると思う。これは私から読者へのメッセージであり、私たち(聴覚に障がいのある人たち)と協力しあえる人が増えてほしいと思っている。

日本手話/日本語字幕付

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